2017-07

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新盆記。

今年のお盆は、兄の新盆でした。
あれから8ヶ月も経つんですね…

兄のいないのには慣れたけれど、兄が亡くなってしまったという現実を受け入れることができないでいます。
今でも兄の遺影に手を合わせると、どうしても最後の日の一日の出来事を、朝から亡くなるまでの何時間かを、反芻せずにはいられないわたしなのです。


本来ならば新盆飾りは、長男であった兄なので実家に置くものなのでしょうが、訪れる方の不便さを考えて、兄の家に飾りました。
だから義姉は朝から晩まで来客のための準備と、当日になれば来客の接待を一手に引き受け、本当に忙しい3日間を送りました。

でも義姉の忙しさは、新盆のことだけではありませんでした。
実は今月に入ってすぐ義姉のお父さんが病気になり、手術をし、入院するという事態となりました。
一人娘のうえ、長女が生まれた頃にお母さんを亡くしている義姉なので、お父さんのことは義姉が看るしかありません。
しかもお父さんは目に障害があり、視力を失くしています。

だったら義姉が家に同居すればいいとお思いになるでしょう。
でもお父さんの住んでいる東海村というところは、原子力発電の発祥の地であり、未だに研究所は発電所があるところで、そのお陰で行政にも利があるので、介護などはよそよりもかなり安価な料金で、十分に看て頂けるという利点があるのです。
それにお父さんは視力がないので、住み慣れたご自分の家意外だと、トイレに行くのにも不自由なわけで…そうなるとこちらの家に連れてくるにも、反対にいろいろ障害があるわけです。
血圧が高いと言う病状も、12月の兄の死を話せない理由になっています。
兄の死を知らないお父さんだから、余計こちらには連れてこられない…そんな事情が山積みで。

そのお父さんが、お盆の入りの前日に退院されました。
病院に居てもらえるうちなら、ヘルパーさんに付いていてもらえるので安心だったのですが、残念ながらお盆はヘルパーさんも休み。
退院帰宅してもヘルパーさんにも家へ来ていただこうとしましたが、体の空いている方は皆無。
結局、義姉は自分の夫の新盆のため、昼間は自宅で来客の応対をし、夜は実家にお父さんの看病に行き、明け方に帰宅…というハードな毎日を送ったのでした。

兄が亡くなってからこの8ヶ月、義姉はどんなに辛く不安な時間を過ごしたのでしょう。
何もできない義妹のわたしは、心が痛みます。
折に触れ、何かと義姉にゆっくり過ごすことができるように努力はしているのですが、反対に義姉に心配されてしまう弱いわたしなのです。


この新盆に、昔から兄と仲が良かったけれど、今は離れてしまっているKさんが来てくださいました。
小・中・高校とずっと仲良く付き合っていただいた方で、大学も就職も別で、それでもどこかでお互いを感じあっているような素敵な関係。
兄の葬式には拠所ない事情があって来ることができなかった、だから今日は伺いました。と、本当に久しぶりのKさんでした。

Kさんはもちろん私の小・中学校の先輩でもあり、Kさんの弟さんはわたしの同級生でもあります。
だから母と義姉とわたしと、4人で話が弾む弾む…(笑)

びっくりしたのは、Kさんが高校時代に兄が作ってKさんにプレゼントしたという、自作の電気部品入れをまだ大切に持っていてくださっているということ。
兄といっしょに過ごしていて、工学畑の兄からはたくさん得るものがあり、自分も電気関係に進んだというKさんですが、高校生のある日、「僕が作ったものだけど、パーツ入れに使えよ」と、小さな木箱を渡されたそうです。
そのパーツ入れを、40年も過ぎた今もまだ大切に持っていてくれるなんて…
本当にびっくりしました。

3年前の父の葬儀で目礼しあったのが、兄とは最後だったとおっしゃるKさん。
でもきっとKさんのなかに、Kさんにしかわからない兄が、今も生きているのでしょう。
義姉しかわからない、母しかわからない、わたしにしかわからない、それぞれの兄との思い出。
祭壇に手を合わせるKさんが、兄と何を語り合ったのか、Kさんがこぼした涙を、兄はどう感じたのか、それは本人でなくちゃわからないこと。

明日はお盆のお帰りの日です。
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四十九日。

早いもので今日は兄の四十九日の法要でした。
実際の四十九日は1/27になるのだけれど、一足早く、今日の日曜日に法要を済ませることにしたのです。
法要と同時に納骨も行いました。

四十九日までは亡くなった兄もまだわたしたちの傍に居るんだと聞いてはいましたが、夕べ神奈川から法要のために帰省した兄の長女Mが前日に夢を見たそうです。

Mが言うには、夢の中で兄はずっとMに
「済まない」「済まない」
と平身低頭して謝っていたそうです。
Mが
「お父さん、何を謝っているの?」
と訊いても、兄はずっと謝っているだけ。

Mは、「お父さんは何を謝りたいだろう、それとも自分自身がお父さんに何か謝って欲しいことがあったのかしら?」
何も思いつかないので不思議だと言います。

「長生きできないで、早く逝っちゃってごめんね、ってことなんじゃない?」
とは言ったものの、実際に眠った気がしないほど長い夢だったとMが言うので、Mの潜在意識の中に何かそういったこだわるようなことがあるのかな、とも思いました。

それにしても取り敢えず納骨が済んだことで、わたしたち遺族の気持ちにも一区切り。
悲しんでばかりもいられないから、前に進んで行かないとね。

兄の闘病メモ(4)

2009年12月10日
 王子の12歳の誕生日。
 夕方帰宅したらすぐに誕生パーティが出来るように、朝からバースディーケーキの台を焼く。
 オーブンで焼きっぱなしで、帰宅したらデコレーションをしよう。まずは早く出勤の用意をしなきゃ。働くままんの朝は忙しい、忙しい…

 8時過ぎに電話が鳴る。義姉だ。
 「あのね…」
 あのね、の後の言葉が続かない。涙を飲み込みながら、声を絞り出すように出しているのがわかる。
 「あのね…今、病院から電話があったんだけど、夕べから具合が悪いらしくて…先生がモルヒネを使いますけどいいですか?って…」
 「…うん。」
 「でね、お願いしますって言った…」
 「…うん…」
 「でもね…モルヒネ使うと少し早まります、って…」
 「…うん…でも痛がってるんだから、痛くなく逝かせてやろう…」
 その後は、義姉の泣き声と「今日はひとりじゃ行けない…行きたくないのぉ…」という言葉で、わたしも胸が詰まってしまい、涙ばかりが流れていく。
 「お義姉さん、わかったよ。あたしも行くから!仕事にちょっと行って、すぐ用意して戻ってくるから待ってて!」

 わたしはすぐに職場に出勤し、進行中の仕事と保留中の仕事を職場のみなさんにお願いして、すぐに義姉の家へ向かった。
 意外なことに、義姉の家には義姉の友人Nさんが来ていて、義姉の家の不要なダンボールや新聞紙などをNさんの車に積んで、処理場に運ぶようにとゴミの処理をしていた。聞けば偶然にNさんが義姉の様子を見に家にやって来て、義姉の様子を見かねて、病院に行く前に溜まったゴミ出しを手伝ってくれたらしい。
 義姉も朝の電話よりは落ち着いていて、Nさんがゴミを持っていってくれた後、何か感じるところがあったらしく、和室の積みあがった荷物を、2階に運んで片付けたいと言い出した。

 兄が溜め込んでいたPC関係や音響関係の機材を、2階やら押入れの中に片付けること小1時間。
 義姉が「もしものことがあったら、お布団は2階の小上がり、着せる和服は子ども部屋にあるからね。」とわたしに家の鍵を渡しながら言う。
 もしものこと、とは兄の急変のことだけど、やっぱりそこまで考えているのか、とわたしも緊張する。

 義姉の車で、やっと病院に着いたのは11時。
 二日前に移った個室の扉をそっと開けて、義姉が元気を装って声をかける。
 「お父さん、遅くなってごめんね。こんな時間になっちゃった」
 わたしも急ぎ足でベッドに横たわる兄の背中から、兄の顔をのぞいた。
 「なんか…今日はすごく具合…悪い…」かすれた声で、兄が搾り出すような声。
 黄疸が進んで、真黄色になった兄の顔は苦痛でゆがんでいた。
 ほんの二日前には、個室に移って、やっとではあるけれど一人で何とかトイレにも行っていた。その兄が…

 兄の向かい側から兄の様子を窺っていた義姉が、
 「yellちゃん、Mちゃんに連絡取りたいの。」
 長女を呼びたいということだろう、すぐに病室の外へ出て、携帯で兄の長女Mに連絡を取る。
 しかし、Mは薬局の薬剤師で、忙しいのだろう、携帯には出なかった。何度鳴らしても出なかった。
 急いで病室に戻り、義姉の携帯を借りてMが勤める薬局の本部に連絡を取る。
 「Mの叔母ですが、家族が具合が悪くなったので、急いで連絡をとりたいんです!」
 こちらの勢いにびっくりしたのか、電話を受けた本部の方は、慌ててMに連絡をとってくれた。
 「yell姉、ごめんね。お父さん?」
 「そう。ちょっと具合が急変しちゃった。でも慌てないで来るのよ。大丈夫?来られる?」
 「うん、この前、先生と同僚にはもう話してあるから、すぐ出る。このまますぐ出るから。走って行くから!」
 Mの勤め先は横浜。横浜から東京まで、東京から上野、上野から日立まで、どんなに頑張って来たって3時間以上はかかるだろう。それまで兄が持ってくれればいいけど。

 病室に戻り、姉にMと連絡がついたことを言うと
 「お父さん、Mちゃん、もうすぐ来るからね」と兄に話しかける。
 「ん?…ああ」と兄。
 Mが見舞いに来るのは土曜日だと言ってあったのに、兄は今が緊急事態だと知っているのか、あまり不思議そうにも訊き返さなかった。
 そう、まだ今日は木曜日。

 全身が癌の痛みで我慢できずに、何度か手を貸して起き上がった兄。
 ベッドの上に座ると、上体を右や左にふらふらと動かす。
 「どうしたの?ふらふらする?」と訊くと
 「バランス」と言う。
 そうか、背中や腰が痛くて、軽く運動をしているつもりらしかった。
 今日の兄は、文章にならない単語だけを話す。それだけ具合が悪いのだろう。
 それなのにまた横になった兄は、左腕を右手でなぞりながら、わたしに言うのだ。
 「ほら…見てみ…こんなに…細くなっちゃった…」
 「そうだね…スマートになっちゃったね…しょうがないよね、点滴の栄養だもんね…」
 そう言いながら、わたしは苦しくなって、涙を飲み込んだ。
 本当なら抗がん剤治療で、もっと生きられたはずだよね。本当ならまたもう一度、仕事にも行けるはずだったよね。

 今まで使っていた痛み止めがなくなりかけて、看護師さんが義姉に注射器を見せてクスリの名前を確認させる。
 そう、モルヒネを使うのだ。
 これで後戻りできなくなるんだ。でも痛みはなくなるよね、きっと。

 何度か起き上がったり横たわったりを繰り返していた兄は、
 「あのさ…」
 と言い掛ける。
 でも、その後の言葉がしばらく出てこない。
 義姉と二人で、顔を見合わせて「?」
 「ん?何?」と訊いてみる。
 またしばらく間が空いて…「何だっけ……忘れちゃった…」
 兄は何を言いたかったんだろう。

 しばらくして兄が義姉に
 「あれは…?」と言う。
 「なに?」
 「グレープフルーツ…」
 「お父さん、ごめんなさい。今日は持ってこなかった」
 食べても食べなくても今までは毎日持ってきていたフルーツを、前日から具合が悪くて兄が食べたくないと言っていたから、この日に限って義姉は用意して来ていなかった。
 「お義姉さん、あたし売店見てくるよ。」
 いつか病院の売店でフルーツの盛り合わせのパックが置いてあったり、袋詰めの果物を置いていたこともあったので、すぐに売店に行ったけれど、やっぱりグレープフルーツはなかった。
 「お義姉さん?みかんしかなかった…」携帯で連絡を取ると、兄は、だったらいい、と言ったらしい。
 近くのコンビニにあるかもしれない、という義姉の言葉で、わたしは病院の外に駆け出した。
 でも、そのコンビニにもやっぱりなかったのだ。
 
 どうしてだろう。
 その時、わたしはどうしても兄にグレープフルーツを食べさせてあげたかった。
 あんなに苦しい息で、グレープフルーツを食べたいと言った兄の小さな願いを叶えてあげたかった。

 それから一番近いスーパーまで走る走る…
 近いといっても15分は走ったと思う。そのスーパーに着いたときにはもう12時をとうに過ぎていて、お昼ごはんを買いに来た人たちで混んでいた。
 急いでホワイトグレープフルーツとルビーグレープフルーツを一つずつ買って、携帯で近くのタクシーを呼んで家へ一度戻った。
 グレープフルーツのカットを母に頼み、急いで自分の車を回して病院に着いたときには、もう1時過ぎ。
 そのグレープフルーツを、上体を起こして、いくつも食べていた兄が忘れられない。もう痛くて苦しくて起きているのもやっとのはずなのに、わたしが兄の上体をささえて義姉が兄に食べさせる。
 「おしまい?」
 「もっと…」
 義姉は兄の食べっぷりにびっくりしながらも、嬉しそうに食べさせていたっけ。

 そうこうしているうちに、病室の扉が静かに開いて、Mが入ってきた。
 「え?M?すごい早い~」
 振り返ってわたしが言う。電話してからまだ2時間半。奇跡のような速さだ。
 「そうでしょ?頑張って走ってきたんだよ、お父さん。」
 そう言いながら、兄に向き合ったMの顔がひきつる。
 Mが前回見舞いに来たときには、兄はまだ元気で、Mの地デジのテレビを買う話なんかしてたもの。
 黄疸で憔悴し、目も殆ど開けられなくなっている兄を見たとき、激しく動揺してしまった。

 兄は娘が来たので元気が出たのか、また起きる、と言って上体を起こす。
 「そうだ、お父さん、職場で白衣を着た写真、撮ってきたよ。見る?」
 Mが話しかける。
 うなづいた兄の目の前に、デジカメを出して、白衣姿のMの画像を見せる。
 「お父さん、見える?職場で撮ったんだよ」
 しばらく目の焦点を合わせるようなしぐさをしていた兄は、やっと「うん」とうなずく。
 「お父さん、次はMの職場だよ、ね、見える?」
 薬局の画像を差し出すけれど、兄はまたしばらくしてから
 「見えない…」と言う。
 「そっか…見えないのか…」
 M、涙で顔がくしゃくしゃ。
 
 真っ赤な目で、何を話しているのかわからない状態のMを気遣って、わたしはMを病室の外に促す。
 「Mってば、急いで来たからお昼ご飯たべてないんじゃない?売店でおにぎりでも買って食べようか?ちょっと行こう」
 「うん、お腹空いちゃった」
 Mも調子よくわたしに話を合わせる。

 それまで義姉はMにも、次女のKにも、兄の病気の話を本当のところ話してはいなかった。
 それは、Mの体調を気遣ったり(Mは就職したばかりで、2月には研究発表を控えていて、不眠になるくらい忙しい毎日を送っている)、Kの大学受験のため、話すに話せずにいたのだ。
 病室を出たわたしとMは、ナースステーションの傍の談話室で、それまでの兄の経過と今の状態を話していた。
 すると、兄の担当の看護師さんが近づいてきて、Mに自己紹介し、わたしの話に補足するように、話をしてくださった。
 納得したMが「もう大丈夫、病室に行こう」と言うので、二人で個室に入ろうとしたとき、扉を開けたとたんに、義姉が「yellちゃん、Kを呼んで!」と言う。
 看護師さんに急いで確かめると、兄の血圧が下がってきてしまったらしく、
 「それでは危篤、ということですか?」とわたしが訊く。
 「そうですね、そう言ってもいいと思います…」
 「では、母も呼んだほうがいいですね?」
 「すぐ来れますか?」
 兄はもうだめなんだろうか…MにKの学校に連絡を入れてもらいながら、わたしは母と旦那に電話をし、車を走らせて母を迎えに行った。
 母は門の前で、心細そうに俯いてわたしを待っていた。

 母とわたしが兄の個室に入ったときには、兄の黒目がまぶたのほうに上がった状態で、声をかけると戻ってきたりの危ない状態だった。
 母は大きな声で兄の名前を呼ぶ。
 そのたびにまぶたのほうに上がっていた黒目が下がり、焦点を結ぶような感じだった。

 4時になって旦那が着き、Kが着き…
 そんな危篤の状態だというのに、兄はまた起き上がりたいと言う。
 何度も出入りしている看護師さんが気を遣ってくれて、兄が起き上がったときに楽なようにと毛布を何枚も持ってきてくれて背中にあててくれる。
 兄が起き上がると、ふらつく体の右と左に娘たちがそれぞれ座り、兄を支えて三人でベッドに座る。
 それがとても悲しくて嬉しくて、娘たちが兄に話しかける。
 みんな顔は涙でくしゃくしゃ。
 それでも前向きな話ばかり。みんな泣き笑いだ。

 反応がにぶくなった兄を、「もう横になろうよ。疲れたよね」と横たえると、もうすでに兄の意識は低下していく。
 母が、今のうちに着せる下着を買うように、とわたしに言う。
 その場に居るのもいたたまれなくて、わたしは母と売店に行った。
 下着のサイズを探していると、旦那から携帯に電話。
 「すぐに戻って」と言う。
 ああ、もう兄は逝ってしまうのか…と、母を先に病室に帰して、わたしは売店で下着を買った。
 急いで個室に戻ると、兄の手をこすって暖めている母しかいなかった。
 ほかの皆は、O先生に呼ばれてナースセンターだという。
 母に言われて、わたしは足をこすって暖める。

 何度もまぶたの上のほうに行ったり来たりをしていた兄の黒目は、ほとんど上がったきりになってしまっていて、思わずわたしは、
 「お兄ちゃん、ここにいるからね!ここにいるからね!」
 と大きな声で叫んでしまった。
 すると、びっくりしたことに、意識がないと思った兄がいきなり
 「はいっ!」
 と、これも大きなはっきりとした声で(かすれていなかったのよね)返事をしたのだ。
 それはまるで、学生が先生に名前を呼ばれたときのような、見事な返事だった。
 結局これが、兄のはっきりとした声を聞いた最後となる。

 4時半になって、義姉たちが病室に戻ってきた。
 場所を明け渡して立ち上がったわたしは、その時がやってきたことを知った。
 何の話をしてたの?と訊いたわたしに旦那がそっと言う。
 「延命処置(人工呼吸器をつけること)は断ってきたよ。少し苦しむっていうから。」

 義姉とふたりの娘が兄を抱きながら、口々に兄に話しかける。
 「お父さん、もっといっぱい帰ってくれば良かったねぇ…ごめんねぇ、なかなか帰ってこられなくて…」
 「お父さん、いっぱい愛してくれてありがとうね、幸せだったよ、お父さんの子どもに生まれて来れて…」
 「お父さーん!置いていかないでよ、一人にしないでぇ~~~」
 「お父さん、MもKも頑張って立派に育てるからね~~~」
 そのうち、兄が何か唇を動かして言葉を発したらしいけど、ほとんど聞き取れなかった。
 「お父さん、ごめんね~~何て言ったかわからなかったよぉ~~~」
 「何て言ったのーーー?」
 「ありがとう、って言ったの?」
 「違うよ、愛してる、って言ったんだよね?お母さんのこと、愛してるって言ったんだよね?」
 「お父さん!わたしも愛してるよ!」

 三人のそれぞれの言葉が胸をいっぱいにして、涙はあふれるがままだったけど、それまで病室で兄と家族の別れを見ていたO先生は、まだ危篤状態が続くのかと思ったのか、それとも自分の診ていた患者が思いのほか早く逝ってしまうので、その別れを見ていられなかったのか、看護師さんに何かをささやいてそっと部屋を出て行ってしまった。
 病室の看護師さんは、モニターの横でわたしと同じように、泣いて泣いて泣いて…

 悲しい別れが続く中、モニターの数値はどんどん小さくなって、ついに0になってしまった。
 そのときO先生が部屋に入ってきたけれど、義姉たちは兄の臨終をしらず、ずっと兄にすがって泣いていた。

 離れない三人を、O先生が黙って見ているので、わたしはMの肩に手を置いて、「先生に診ていただこうか」と声をかけた。
 やっと体を起こした三人は、兄の眼を小さいライトで確認したO先生に、
 「午後4時59分、死亡を確認しました」
 と宣言されると、また新たな涙が溢れ出す。

 医者が泣いていては仕事にならないのだろうけれど、そばでずっと一緒に居てくれた看護師さんの涙といたわりの言葉は、「ご愁傷様でした」のO先生の言葉よりも何倍もわたしたちには心に凍みた。

 兄、54歳。
 2009年12月10日。短くも太い人生を全うした。
 その命日、王子の誕生日と同じ日。
 生涯忘れられない日となった。

兄の闘病メモ(3)

2009年12月5日
 兄を見舞うのに、久しぶりに姫と王子を連れて行った。
 あまり病状が進んで、子どもたちに会わせるのには辛い状態になってからでは遅い。

 病室で姉弟喧嘩を始めたら、王子が姫を罵倒する言葉を口にした。
 すると兄が
 「王子、いくらなんでもお姉ちゃんなんだから、姫にそういうこと言っちゃだめだぞ」
 そう、この頃、兄は子どもを叱るくらいは元気があったのだ。

 そして姫には
 「勉強頑張らないと、なりたい職業にはつけないぞ」
 とも言っていた。

 いつもは寝ていると背中が痛い、と上体を起こして座っていた兄が、ずっと寝転がったまま。
 体を起こすと辛いのか…
 そして話す言葉も、疲れるのだろう、途切れ途切れになっていた。


12月6日
 母の末の妹家族がお見舞いに来る。
 
 兄は朝から体に痛みがあり発熱もしていたらしいが、解熱剤と痛み止めで、お見舞いの時間に合わせて体調を調整したらしい。
 兄は仙台に行くときにも、解熱剤を点滴したら何時間で熱が下がるか、ティッシュペーパーの箱にボールペンで体温を書き入れて計算し、逆算して仙台行きが実現した。

 どうにも理数系らしい兄の所作である。
 
 昨日の朝の検診で、目に黄疸が出始めたとのO先生の話。
 それにしてもこの日の兄は元気で、後日思い返すと、この日が最期の元気な顔を見せた日だった。



12月7日
 呼吸が楽になるようにと、鼻にチューブで酸素吸入を始める。
 

12月8日
 兄、個室に移る。
 黄疸が全身に及んで来る。

 わたしは翌日が職場の忘年会なので見舞いには行けないから、ひと目だけでも兄に会いたくて退勤後病院に向かった。

 内科病棟に着くと、ナースステーション前に兄の次女が佇んでいる。
 次女が水戸の高校から日立駅に着いたところを義姉が車で拾って、一緒に病院へ来たのだが、病室に行く前に
 「お母さんだけちょっと」と看護師さんに呼び止められて、義姉はO先生と看護師さんと話をしているらしい。
 病室へ行っていいやら迷った次女は、成すすべもなく、話はすぐ終わるのだと思って義姉を待っていたのだと言う。

 「じゃ、一緒に待ってようか」
 二人で電話のある談話室のソファに座って雑談をしていたが、なかなか義姉が出てこない。
 何度かナースステーションを覗くのだが、ほとんど看護師さんは出入りばかりでナースステーションに居る人はなく、諦めてまたソファに座る。

 30分も過ぎた頃、わたしは王子の塾のお迎えの時間が迫っていることに焦り、ナースステーションで忙しそうな看護師さんに声をかけた。
 病室に入ってもいいのか、義姉はまだなのか。

 いったん待たされた後、先に個室に入ってもいいということなので、とりあえず二人で兄を見舞う。

 出入り口に背中を向けた格好で、兄が寝ている。
 やはり体が痛むので、特に背中はベッドにつける状態ではなく、右半身を下にして窓を向いて寝ていた。

 二日見ないだけで、あまりにも衰弱した兄を見て、愕然とするわたし。
 部屋が薄暗いので、兄の黄疸はそれほど目立つとは思わなかったが、かなり進行しているようだった。

 義姉がO先生と話していたのは、看護師さんから
 「先生に言いたいことがあったらはっきり言ったほうがいいですよ。わたしたちに出来ることがあったら何でもしますから、それも言って下さい」
 と勧められたからだという。

 義姉は今までのO先生の言動(兄に対する暴言や、夜の電話の内容とか)が納得できないこと、緩和ケア病棟転科も勧められているが、看護師さんにはとてもよくしていただいているので、このまま内科病棟で診て頂きたいことなどを話したようだ。

 O先生が義姉の話で謝ったのは自分自身の治療方針に余程自信があったのかほとんどなくて、でも最初の見立てとはかなり病状が違ってきているので、それだけは頭を下げたという。

 王子のお迎えの時間が迫ってきたので、わたしは兄にまた来るね、と一言だけ言って病室を後にした。


12月9日
 夕方4時ごろ、母から携帯電話に着信があり、義姉がまだ病院から帰宅しないとのこと。
 毎日母が兄を見舞う前に、一旦病院から3時には帰宅して少しだけ体を休める義姉なので、母はおかしいと感じたらしい。
 また先生からお話でもあって遅れているのかもね、と言いながらも、わたしも不安になる。

 兄の病状がまた一層悪くなってしまったのではないか。
 そう思いながらも、職場の忘年会で9時半まで過ごす。

 タクシーで9時40分には自宅に着いたのだが、かんちゃんから母と義姉がさっきまで待っていたと聞いて、隣家の母宅に出向く。
 
 母の話では、兄は相当全身に激痛を感じているらしく、寝るも起きるも自分の体を持て余して、それでもその激痛に耐えているという。
 もともと我慢をする兄だったけれど、ここまできてもまだ我慢を通すなんて…痛いなら痛いと言ってくれたほうがまだいいのに。

 かなり強い鎮痛剤(すでにもう麻薬)を使っているけれど、「これで効かないのなら『モルヒネ』しかありません」とO先生に言われたとのこと。
 母はあまりの兄の症状に声もなく、落ち込んだ様子。

 「そんなに痛いのなら、早く逝かせてあげたほうがいいのかな」
 そんな言葉さえ、わたしに言わせてしまう。

 兄の最期はもうすぐそこまできているのかもしれない。 

(つづく)

兄の闘病メモ(2)

2009年11月23日
 母が新聞に載っていたと、瀬田クリニックの広告を持ってきた。
 免疫療法を知ったときに、わたしが何度もネット検索してヒットしたクリニックだった。
 三大都市にある大きなネットワークを持つクリニックだけど、水戸にも1軒協力病院があったはず。

 仙台より近くていいなぁ、と義姉と話した覚えもある。
 仙台行き前に兄にもちょっと話したことがあったけど、兄は仙台の『きぼうの杜』にこだわったのだった。
 自分の血液を培養してリンパ球を増やす『BAK療法』に比べて、瀬田クリニックでは様々な療法がある。
 
 手術で患部を取るならば、ここの『自己ワクチン療法』が使えるかもしれない。
 ほんの少しの希望だけど、兄に話すとあまり乗り気ではないものの、「自分は行けないけど、話だけでも聞いてきてくれていいよ。でも仙台と同じ結果だと思うけどね。」
 「でも、あたしは何でもやってみたいの。手術までずっとこのまま待ってるのは嫌。」
 結局は、わたしの自己満足になってしまったけれど。

 やはり乗り気じゃない義姉を、母とわたしが説得する形で、水戸の病院に連絡を入れた。
 12/2に病院の予約をとると、病院から手術でとった癌を入れる容器が宅急便ですぐ届く。
 
 その予約日を前に、兄の病状は芳しくなく、腹水が溜まってきた様子。
 仙台行きのときに、久しぶりにスラックスを穿いた兄のお腹が絶食のわりにきつかったという話を聞いて、「腹水が溜まってきたんじゃないの?」と心配はしていたけれど、実際に溜まっているようだ。

 点滴の栄養も、毎日3パックしているから太ったのかな、なんて兄は笑っていた。
 診察の際にO先生にお腹の話をしたら、「多少溜まっているけど、もっと溜まったら抜きますね」と言われる。
 点滴も2パックにしてもらったら、お腹の張りが違ってきたと兄が言う。
 点滴だけのせいじゃないような気もするけど。


12月1日
 兄の病状の進み具合は目に見えて早く、日増しに元気がなくなり、癌特有の体の痛みが出てきた。
 入院直後から、ベッドが固かったり柔らかかったりするので、背中や腰が痛いと言っていたけど、それも腰痛とかじゃなくて背骨の癌骨転移なのではないかと疑う。

 水戸の病院の予約日はすぐだけど、義姉は「病院へ行って1日つぶれてしまうのなら、お父さんのそばにいたほうがいいんじゃないかと思うの。」と言う。
 確かに兄にとっての1日は、健康な人の1日とは長さが違うのかもしれない。
 諦めるのは悔しいけど、兄の状態を見れば、義姉の気持ちがよくわかる。


12月2日
 外科の先生からのお話があった。
 先日のK先生のほかに、S先生がいっしょに話してくださった。
 こちらからは、兄、母、義姉。
 S先生は父が2度目の癌闘病で手術入院したときの主治医の先生だ。
 母はS先生を大変信頼していた。だから兄が癌とわかったとき、S先生にお会いして話をしたかったと何度も言っていた。
 ただ、内科的治療をするのにわざわざ外科の先生とのコンタクトをとるのは話が通らないような気がして躊躇していたみたいだ。

 結局「今の状態では手術をしても余命を短くするだけなので手術はできない」という話をされた。
 後の母の話だと、兄はその言葉を聞いたとき、さっと立ち上がり、
 「そうですか、わかりました。ただ、僕の言いたいことは、今までの3週間は何だったんでしょうね」
と先生方に深々と一礼し、義姉とともにその場を立ち去ったということだ。

 手術が最終手段だったとしたら、兄はこれから何を目標に、何を目指して生きていけばいいのか。
 命の燃え尽きる最期の最期で、期待は裏切られ、兄の気落ちや悔しさは察するに余りある。

 兄が出て行った後、母はS先生に泣いて頼んだという。
 「どれだけかかってもかまいません。息子を助けてください。」
 S先生は仰った。
 「外科医は何でも切ると言うわけにはいかないんです。今の状態では胃の摘出手術でそのまま逝ってしまうということだって確率が高いのです。内科の先生とこの後の治療を話し合って、頑張って治療するようにしましょう」

 S先生のその言葉に、すがるしかなかった母。
 でもその言葉は、結果的に何も出来なかったことになる。

 S先生は兄の余命を正月が過ごせるかどうか、と診た。
 内科のO先生は、12月が越せるかどうか、だと言う。

 兄はその日を境に、どんどん状態が悪くなるのだ。

(つづく)

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