2009-12

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兄の闘病メモ(3)

2009年12月5日
 兄を見舞うのに、久しぶりに姫と王子を連れて行った。
 あまり病状が進んで、子どもたちに会わせるのには辛い状態になってからでは遅い。

 病室で姉弟喧嘩を始めたら、王子が姫を罵倒する言葉を口にした。
 すると兄が
 「王子、いくらなんでもお姉ちゃんなんだから、姫にそういうこと言っちゃだめだぞ」
 そう、この頃、兄は子どもを叱るくらいは元気があったのだ。

 そして姫には
 「勉強頑張らないと、なりたい職業にはつけないぞ」
 とも言っていた。

 いつもは寝ていると背中が痛い、と上体を起こして座っていた兄が、ずっと寝転がったまま。
 体を起こすと辛いのか…
 そして話す言葉も、疲れるのだろう、途切れ途切れになっていた。


12月6日
 母の末の妹家族がお見舞いに来る。
 
 兄は朝から体に痛みがあり発熱もしていたらしいが、解熱剤と痛み止めで、お見舞いの時間に合わせて体調を調整したらしい。
 兄は仙台に行くときにも、解熱剤を点滴したら何時間で熱が下がるか、ティッシュペーパーの箱にボールペンで体温を書き入れて計算し、逆算して仙台行きが実現した。

 どうにも理数系らしい兄の所作である。
 
 昨日の朝の検診で、目に黄疸が出始めたとのO先生の話。
 それにしてもこの日の兄は元気で、後日思い返すと、この日が最期の元気な顔を見せた日だった。



12月7日
 呼吸が楽になるようにと、鼻にチューブで酸素吸入を始める。
 

12月8日
 兄、個室に移る。
 黄疸が全身に及んで来る。

 わたしは翌日が職場の忘年会なので見舞いには行けないから、ひと目だけでも兄に会いたくて退勤後病院に向かった。

 内科病棟に着くと、ナースステーション前に兄の次女が佇んでいる。
 次女が水戸の高校から日立駅に着いたところを義姉が車で拾って、一緒に病院へ来たのだが、病室に行く前に
 「お母さんだけちょっと」と看護師さんに呼び止められて、義姉はO先生と看護師さんと話をしているらしい。
 病室へ行っていいやら迷った次女は、成すすべもなく、話はすぐ終わるのだと思って義姉を待っていたのだと言う。

 「じゃ、一緒に待ってようか」
 二人で電話のある談話室のソファに座って雑談をしていたが、なかなか義姉が出てこない。
 何度かナースステーションを覗くのだが、ほとんど看護師さんは出入りばかりでナースステーションに居る人はなく、諦めてまたソファに座る。

 30分も過ぎた頃、わたしは王子の塾のお迎えの時間が迫っていることに焦り、ナースステーションで忙しそうな看護師さんに声をかけた。
 病室に入ってもいいのか、義姉はまだなのか。

 いったん待たされた後、先に個室に入ってもいいということなので、とりあえず二人で兄を見舞う。

 出入り口に背中を向けた格好で、兄が寝ている。
 やはり体が痛むので、特に背中はベッドにつける状態ではなく、右半身を下にして窓を向いて寝ていた。

 二日見ないだけで、あまりにも衰弱した兄を見て、愕然とするわたし。
 部屋が薄暗いので、兄の黄疸はそれほど目立つとは思わなかったが、かなり進行しているようだった。

 義姉がO先生と話していたのは、看護師さんから
 「先生に言いたいことがあったらはっきり言ったほうがいいですよ。わたしたちに出来ることがあったら何でもしますから、それも言って下さい」
 と勧められたからだという。

 義姉は今までのO先生の言動(兄に対する暴言や、夜の電話の内容とか)が納得できないこと、緩和ケア病棟転科も勧められているが、看護師さんにはとてもよくしていただいているので、このまま内科病棟で診て頂きたいことなどを話したようだ。

 O先生が義姉の話で謝ったのは自分自身の治療方針に余程自信があったのかほとんどなくて、でも最初の見立てとはかなり病状が違ってきているので、それだけは頭を下げたという。

 王子のお迎えの時間が迫ってきたので、わたしは兄にまた来るね、と一言だけ言って病室を後にした。


12月9日
 夕方4時ごろ、母から携帯電話に着信があり、義姉がまだ病院から帰宅しないとのこと。
 毎日母が兄を見舞う前に、一旦病院から3時には帰宅して少しだけ体を休める義姉なので、母はおかしいと感じたらしい。
 また先生からお話でもあって遅れているのかもね、と言いながらも、わたしも不安になる。

 兄の病状がまた一層悪くなってしまったのではないか。
 そう思いながらも、職場の忘年会で9時半まで過ごす。

 タクシーで9時40分には自宅に着いたのだが、かんちゃんから母と義姉がさっきまで待っていたと聞いて、隣家の母宅に出向く。
 
 母の話では、兄は相当全身に激痛を感じているらしく、寝るも起きるも自分の体を持て余して、それでもその激痛に耐えているという。
 もともと我慢をする兄だったけれど、ここまできてもまだ我慢を通すなんて…痛いなら痛いと言ってくれたほうがまだいいのに。

 かなり強い鎮痛剤(すでにもう麻薬)を使っているけれど、「これで効かないのなら『モルヒネ』しかありません」とO先生に言われたとのこと。
 母はあまりの兄の症状に声もなく、落ち込んだ様子。

 「そんなに痛いのなら、早く逝かせてあげたほうがいいのかな」
 そんな言葉さえ、わたしに言わせてしまう。

 兄の最期はもうすぐそこまできているのかもしれない。 

(つづく)
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兄の闘病メモ(2)

2009年11月23日
 母が新聞に載っていたと、瀬田クリニックの広告を持ってきた。
 免疫療法を知ったときに、わたしが何度もネット検索してヒットしたクリニックだった。
 三大都市にある大きなネットワークを持つクリニックだけど、水戸にも1軒協力病院があったはず。

 仙台より近くていいなぁ、と義姉と話した覚えもある。
 仙台行き前に兄にもちょっと話したことがあったけど、兄は仙台の『きぼうの杜』にこだわったのだった。
 自分の血液を培養してリンパ球を増やす『BAK療法』に比べて、瀬田クリニックでは様々な療法がある。
 
 手術で患部を取るならば、ここの『自己ワクチン療法』が使えるかもしれない。
 ほんの少しの希望だけど、兄に話すとあまり乗り気ではないものの、「自分は行けないけど、話だけでも聞いてきてくれていいよ。でも仙台と同じ結果だと思うけどね。」
 「でも、あたしは何でもやってみたいの。手術までずっとこのまま待ってるのは嫌。」
 結局は、わたしの自己満足になってしまったけれど。

 やはり乗り気じゃない義姉を、母とわたしが説得する形で、水戸の病院に連絡を入れた。
 12/2に病院の予約をとると、病院から手術でとった癌を入れる容器が宅急便ですぐ届く。
 
 その予約日を前に、兄の病状は芳しくなく、腹水が溜まってきた様子。
 仙台行きのときに、久しぶりにスラックスを穿いた兄のお腹が絶食のわりにきつかったという話を聞いて、「腹水が溜まってきたんじゃないの?」と心配はしていたけれど、実際に溜まっているようだ。

 点滴の栄養も、毎日3パックしているから太ったのかな、なんて兄は笑っていた。
 診察の際にO先生にお腹の話をしたら、「多少溜まっているけど、もっと溜まったら抜きますね」と言われる。
 点滴も2パックにしてもらったら、お腹の張りが違ってきたと兄が言う。
 点滴だけのせいじゃないような気もするけど。


12月1日
 兄の病状の進み具合は目に見えて早く、日増しに元気がなくなり、癌特有の体の痛みが出てきた。
 入院直後から、ベッドが固かったり柔らかかったりするので、背中や腰が痛いと言っていたけど、それも腰痛とかじゃなくて背骨の癌骨転移なのではないかと疑う。

 水戸の病院の予約日はすぐだけど、義姉は「病院へ行って1日つぶれてしまうのなら、お父さんのそばにいたほうがいいんじゃないかと思うの。」と言う。
 確かに兄にとっての1日は、健康な人の1日とは長さが違うのかもしれない。
 諦めるのは悔しいけど、兄の状態を見れば、義姉の気持ちがよくわかる。


12月2日
 外科の先生からのお話があった。
 先日のK先生のほかに、S先生がいっしょに話してくださった。
 こちらからは、兄、母、義姉。
 S先生は父が2度目の癌闘病で手術入院したときの主治医の先生だ。
 母はS先生を大変信頼していた。だから兄が癌とわかったとき、S先生にお会いして話をしたかったと何度も言っていた。
 ただ、内科的治療をするのにわざわざ外科の先生とのコンタクトをとるのは話が通らないような気がして躊躇していたみたいだ。

 結局「今の状態では手術をしても余命を短くするだけなので手術はできない」という話をされた。
 後の母の話だと、兄はその言葉を聞いたとき、さっと立ち上がり、
 「そうですか、わかりました。ただ、僕の言いたいことは、今までの3週間は何だったんでしょうね」
と先生方に深々と一礼し、義姉とともにその場を立ち去ったということだ。

 手術が最終手段だったとしたら、兄はこれから何を目標に、何を目指して生きていけばいいのか。
 命の燃え尽きる最期の最期で、期待は裏切られ、兄の気落ちや悔しさは察するに余りある。

 兄が出て行った後、母はS先生に泣いて頼んだという。
 「どれだけかかってもかまいません。息子を助けてください。」
 S先生は仰った。
 「外科医は何でも切ると言うわけにはいかないんです。今の状態では胃の摘出手術でそのまま逝ってしまうということだって確率が高いのです。内科の先生とこの後の治療を話し合って、頑張って治療するようにしましょう」

 S先生のその言葉に、すがるしかなかった母。
 でもその言葉は、結果的に何も出来なかったことになる。

 S先生は兄の余命を正月が過ごせるかどうか、と診た。
 内科のO先生は、12月が越せるかどうか、だと言う。

 兄はその日を境に、どんどん状態が悪くなるのだ。

(つづく)

兄の闘病メモ(1)

自分自身でも確認のため、兄の1ヶ月半の覚書をしておきたいと思います。


平成21年10月27日
 兄が『体に力が入らない』と市内の総合病院を受診する。
 血液中のヘモグロビンの値が正常値の1/3~1/2のため、即検査、即入院。

 午後4時ごろ義姉から電話で、兄が入院したことを知る。
 退勤後、兄が病院まで乗っていった車を回収するために、義姉といっしょに病院へ行く。

 兄はワイシャツ姿のままベッドに座って点滴を受けていた。
 「ガンだったら手術すればすぐ元気になれるから。」と、意外に元気。

 「入院中ヒマだから、何でもいいから本を調達してきて」と頼まれて、山のように本を持ち込んだわたし。


10月31日~11月1日
 自宅に外泊。
 検査結果も聞いていないうちから、なぜ外泊?と家族は不安。


11月2日
 担当医のO先生にお話を聞く。

 病名は、胃が原発の進行癌(腺癌)。
 肝臓も半分癌細胞で固くなっているので、多発肝転移、StageⅣ。
 手術は適用にならず、余命は6~9ヶ月。

 根治はできないが、胃癌には化学療法がよく効くので、入院は最初だけで通院で仕事にも行けるでしょうとのO先生のお話だった。
 どんどん具合が悪くなって逝ってしまうということはない、と言われて、ほっとしたのを覚えている。
 化学療法は、TS-1を服用、8日目に点滴にてシスプラテン投与との説明。

 癌にも色々あるらしいが、スキルス性癌や細胞癌にくらべれば一般的な腺癌と診断されたので、この時点ではまさか1ヶ月半後に亡くなってしまうとは考えられなかった。
  
 10/27に来院した際の血液中ヘモグロビンは『5.4』→ 輸血後『7.3』に多少回復
 しかし11/2にはまた『6.1』に下がる。
 成人男子の健康体では『15.0』ほどもあるというから、かなりの貧血である。
 しかも、10/27に輸血したのに5日後の数値も低いことから、この時点で胃患部のみならず、他からの出血も考えなくてはいけなかったのではないかと考える。

 胃から出血しているのにもかかわらず、通常食を食べてよいとのO先生の判断。
 それも、兄のほうから「消化が良いように、ごはんよりお粥にしたほうが良いですか」と聞くも、「どちらでも」との回答。
 どう考えても、誤診としかいいようがない。

 また、10/31~11/1、11/6~11/8は外泊OKとのO先生の勧めで、希望していなかったのに兄外泊。
 悪いほうにとれば、医者や看護師が少ない土日は、患者が少ないほうが楽、というふうにもとれる気が。
 せっかくの外泊中も家から出ることはなく、PCで仕事をしたり、疲れればソファで横になったりしていた。
 
 これだけ貧血なのに、外泊を許可する(というより勧められた?)のもどうかと思うけど。


11月3日 
 TS-1服用始める。


11月6日~11月8日
 自宅に二泊の外泊。
 貧血が酷く、兄の食欲がなくなってくる。
 外泊のたびに、ヘモグロビン低下。
 病院に戻り、また輸血する。
 ここまでで輸血4回。


11月9日
 胃患部からの出血が止まらない、ということで、TS-1服用停止。
 この日から絶食して、点滴栄養で様子をみる。
 兄、食事がしたくてしきりに食べたいメニューの話をする。

 O先生から義姉に電話。
 「出血が止まらないので、出血している胃を全摘出してしまえば、もう二度と食事ができないし、人工栄養なので、ずっと入院で家には二度と帰れない」ことを兄に伝えたら、兄は「だったら死んだほうがいい」と言ったらしい。
 このやりとりをO先生は義姉に話をした。
 義姉、ショックで激しく動揺する。
 このO先生、ここまでキツイことを患者に言うということは、患者自身の生きる意欲をなくそうと思っているのか。
 電話の内容を聞き、本当に医者か?と疑問と怒りで頭がいっぱいになった。


11月13日
 外科のK先生から、胃全摘の話をされる。
 CT写真や資料を見て、「大丈夫」と太鼓判。
 しかし「胃を摘出すれば食事もできるようになるし、仕事にも復帰できる」というけれど、O先生の話とは180度どころか正反対の結果。
 どちらが本当なのか。
 兄は、選択肢がそれしかないのなら、と仕方なく同意。

 手術予定が12/4だということで、3週間もどうしていればよいのか不安。
 3週間も待たなくてはならないのは、緊急性がないということなのか。


11月15日
 近所の薬局から購入した「タヒボ茶」を飲み始める。
 「タヒボ茶」はネットで検索すると癌によく効く健康茶だということで、その効用は賛否両論。
 要するに、「信じるものは救われる」的なものなのかもしれない。
 でも、何もしないでいるともっと不安なので、藁にもすがる気持ちで、母が煮出して義姉が病院に運んでせっせと飲ませる。

 「タヒボ茶」を紹介してもらった薬局で、免疫細胞療法「BAK療法」について紹介される。
 仙台の『きぼうの杜』という病院で治療できるらしい。
 この免疫細胞療法には、「BAK療法」のほかにも「自己ワクチン療法」などがあり、ネット検索してみて、その治療法の多彩さに驚く。
 本当に「きぼう」になるかも…と兄に話をする。

 『きぼうの杜』で治療ができるかどうかはわからないが、話だけでも聞いてみたいと兄がいうので、予約をする。


11月20日
 仙台『きぼうの杜』へ。
 兄、久しぶりの外出。

 結果は、「著しく免疫が下がっている状態で治療しても、効果は期待できない」ということで、断念。

 兄は納得したようだったが、それ以来、他の免疫細胞療法を薦めても、「同じことだ」と受け付けず。
 結局は外科的手術を期待しているようにも見えた。

(つづく)

葬儀の前に。

11/3から12/11までのblogは、別ブログの『Sue(スー)』のIDで公開していたものです。
12/10に兄が亡くなり、本日葬儀・告別式がすべて終わりましたので、こちらに移しました。

たった1ヶ月半でしたが、本当にいろいろなことが起こり、悲しみ、苦しみ、短いながらも長い時間を過ごしたような気がします。

さて、兄が旅立った12/10は、本来ならば王子の誕生日で、夜にはバースディーパーティをささやかに行うつもりでいました。
朝のうちにケーキの台を焼いてしまおうと、オーブンに入れてスイッチを押したときでした。義姉からの電話は。

その長い一日は、王子の誕生日であり、兄の命日になってしまいました。
忘れようにも忘れられない日になってしまったのです。

そして…翌日11日の朝に、王子が37.2度の発熱。
葬儀の準備で忙しい中、学校を休ませた王子の様子を見つつ、隣家の兄の家と自宅を往復していたわたしでした。

夕方になって38.6度に上がった熱は、翌日の朝になっても38.2度までしか下がらず、インフルエンザも疑って、かかりつけ医を受診しました。

ガ──────ン 〓■●

新型インフルエンザですた▄█▀█●

王子、兄の葬儀に出席できず。
また、新型インフルなのに親の看護も受けられず…

かかりつけ医の先生に相談したら、高熱だったら抗インフルエンザ薬の投与後は24時間様子見をしなきゃならないのですが、王子は症状が軽いので大丈夫でしょうとのこと。
不安なまま王子をひとりぼっちにしてしまいましたが、何とか乗り切れて、発熱後3日目の今日は平熱に下がり、咳は残ったものの元気でいます。

また、家の電話がNTT回線が使えなくなるトラブルもありました。
前にも何度かケーブル回線電話(IP電話)のターミナルの接触不良で、NTTだけ受けられなくなってしまったことがあるので、ケーブルテレビに修理の依頼をしました。

すると、ターミナルは異常がなく、家のモジュラーコード差込口に、すでに信号が来ていないとのこと。
さあ、今度はNTTに電話です。
結局、電話線の家への引き込み口の線が腐食し、ほぼ断線した状態でした。

葬儀を控えて多忙を極めているというのに、家電(イエデン)の故障と息子王子の新型インフルエンザ。
いや~参りましたよ∑(´Д`*)ノノ!!

とりあえず、王子のインフルのため、わたしの出社は木曜日からとなりました。
次回は兄の葬儀の様子など、ご紹介しようと思います。

そして旅立ち。

12/10、16時59分、とうとう兄が旅立ちました。
たった45日の闘病生活でした。



あの12/2に外科の先生からの胃の全摘は無理との判断と告知以来、元気がなくなっていた兄でしたが、ここ3日は黄疸が顕著に出始めて、今朝病院に行ったときには、別人のように様変わりした兄の顔でした。


かすれた声で「なんか…今日はすごく具合が悪いんだ…」
夕べから痛みが増し、かなり苦しんで寝てはいられなかったと言います。

そのため、今朝、主治医が義姉に電話をかけてきて、モルヒネを使いますか?と訊いたそうです。
わたしもその話を義姉から聞いたときには、モルヒネを使うと寿命が縮むということも言われたので、「どうかな」とは思いましたが、痛みを感じずに逝くことができるのなら、そのほうがいいね、とも義姉と言っていたのでした。
でも義姉は、「今日は怖くて一人で病院にいけない」と泣くのです。
なにか予感でもあったのでしょうか。
それでわたしも会社を休んで、いっしょに病院に行くことにしたのです。


それにしても、全身に痛みが走り、寝ることにも起きることにも痛みを感じずにはいられない兄を見ながら、涙を隠して介護するのは本当に辛かった…
義姉は毎日こんな思いをしていたのですね。
頑張ったね、お義姉さん。

そんな兄が、急にグレープフルーツを食べたい、と言ったので、病院の売店に走りましたが、そんなものありません。
近くのコンビニにも行ってみましたがやっぱりなかった。
でも、兄が食べたいというグレープフルーツをどうしても買いたくて、ずっと離れたスーパーまで歩いていきました。
義姉の車でいっしょに病院へ行ったので、いつもの愛車MPVは家に置きっぱなしだったのです。

30分以上急いで歩いたせいか、目当てのものを買ったら疲れてしまい、結局タクシーで自宅に帰りました。
それから食べやすいように切ってタッパーに詰め、急いで車で病院に向かったのでした。

やっと病院についたときには、兄はうつらうつらしていましたが、そのグレープフルーツを食べる、と言って起き上がり、いつも以上にかなりの量を食しました。
そんなに食べて大丈夫?義姉がびっくりしたくらいにね。

それだけ食べる気力もあったのに、血圧が上がらなくなってきたので、家族を集めるようにと看護師さんに促されました。
長女は横浜で薬剤師の仕事を、次女は水戸の高校です。
慌てて電話で呼びました。

それからあとはまるで夢のような…
やっと兄の旅立ちに間に合った娘たちと義姉が兄の手を握りながら口々に「ありがとう」を言うのでした。
もう意識がほとんどなかった兄ですが、「あ…ぃ……」と発音したそうです。
娘たちは「お母さんに愛してたよ、って言ったんだよね、お父さん!」と。
「ありがとう」でに「愛していた」でもいいの。
娘たちと義姉が、兄と密な時間を過ごした何十分か。

兄は満足してお空に行ったのだと思います。

最期のモルヒネで痛みはなくなったかもしれませんが、死期を早めたのは事実。
でも痛くなく、苦しくなく、逝けた事に感謝します。


お兄ちゃん、ありがとね。
お兄ちゃんの最期の何時間かを、いっしょに過ごせて嬉しかったよ。
お兄ちゃんが残した家族は、みんなで頑張っていっしょに生きていくよ。
ずっとずっとね。

お兄ちゃん!

お兄ちゃん!お兄ちゃん!お兄ちゃん!



死んじゃいやだ!


まだ逝っちゃいやだ!







でも…でも…もう無理だよね。

痛みもなく、苦しくないのなら、早く逝かせてあげるべきなんだよね。

何もできない 自分がくやしいです…

12/9

今日は職場の忘年会でした。
兄のことがあるので気も乗らないけど、たった4人の職場でわたしが抜けると、みなさんに迷惑がかかると思い参加させてもらいました。

21:30に帰宅すると、旦那が「さっきまでお母さんとお義姉さんが待っていたんだよ」と。
そういえば、夕方4時になっても義姉が病院から帰ってこない、と母から携帯に電話があったのでした。
いつも3時ごろには義姉が帰宅して、また母をつれて4時過ぎには病院に行くので、なんとなく嫌な予感はしていたのですが…
結局、朝から兄の具合が悪く、義姉は帰宅できなくなってしまったのです。



「延命治療をどうしますか」

いつもお世話になっている看護師さんが、泣きながら姉に告げたそうです。

「家族と相談して決めます」
と義姉は答えて帰宅したので、その相談だったようです。


昨日から個室に入った兄は、まだ自室のトイレに歩いて入っていたようでしたが、今日はそれも辛くて…それでもトイレだけは自分で、との強い意志で、頑張って歩いてトイレに入っていたと聞きました。

お兄ちゃん、そんなに痛いのに、どうして頑張れるの?
もうゆっくりしていいんだよ。
病人は我儘言ってもいいんだからね。

神様、どうか兄を痛みのないところへ、早く連れて行ってください。
お願いです。

12/7

昨日のお見舞いで気遣った疲れが出たのでしょうか。
今日は朝から具合が悪く、呼吸が楽になるように呼吸器をつけたということです。

日に日に弱っていく兄を、母と義姉はどんな気持ちで見守っているのでしょうか。

空き次第、兄は個室に入ることになっています。
今の内科の看護婦さんたちは素晴らしく気を遣ってくれて、家族が兄といっしょにゆっくり時間を過ごせるようにとの配慮です。
父の最期は、心無い看護婦さんたちばかりで辛い終末を迎えてしまいましたが、兄は優しさにつつまれているようです。

兄はトイレにはやっと起きられるけれど、歯磨きや洗顔をする気力も元気もなくなってしまいました。
それも看護婦さんたちが兄をシャンプーしてくれたり、顔を拭かせてくれたりと、本当に親切にしていただいています。

それにしても、なんという病状の進行の早さ。
一ヶ月前には、外泊していたというのに。



いつもコメントをありがとうございます。
本当は、セカンドオピニオンも他の病院での治療もしたかった。
でも、諸事情でどうしてもすることが出来なかったり、やっとできると思ったときには、すでに兄の病状は明日をもしれなくなってしまいました。

今は、兄が家族と濃密な時間を過ごせることと、痛くなく苦しくなく最期を迎えられるように祈るのみです。

どんどん体力が落ちてゆく。

先日の外科の先生とのお話で、兄が退席してしまったあと、
「会わせたい方がいたら、動ける今のうちに会わせてあげてください。」
と言われてしまった母でした。

病院から帰宅した母の憔悴は、今まで元気に病院へ通っていただけに激しいもので、初めてわたしの前で声を上げて泣きました。

「まだ54歳なのに…代われるものなら代わってやりたい!」

嗚咽を聞きながら、わたしも旦那も、声を出さずに泣きました。


日に日に兄の体は癌に蝕まれ、元気を失っていきます。
入院当初は、わたしに新しい本を持ってきてくれとせがみましたが、今は本を開いているのを見たこともありません。

腹水は溜まる一方ですが、栄養剤の点滴を少し減らしたら、楽になったと兄は言います。
その代わり痛み止めは増えたようで、背骨の痛みが緩和されたようです。
もっとも反対に全身の倦怠感は感じているようですが。

1週間前から、足にむくみが出てきていましたが、昨日から太もももむくんできたようです。
最近はテレビもDVDもつけずに、天井をぼんやりと眺めるようになりました。



今日は仙台から叔母夫婦(母の妹)がノブ(私たちの従兄弟です)といっしょに来てくれました。
ノブの長男はまだ3歳ですが、出産のときに医療事故があって脳に重い障害が残ってしまい、いつまで生きられるかわからない状態で、彼も大変な思いで育児をしています。

そのノブに
「おねーちゃん…おにーちゃんが大変なことになっちゃって…」
と声を詰まらせて言われたら、やっぱり辛くなってしまいました。


兄は叔母たちが来ることを聞かされていたので、朝から会うときのためにと状態がそのときに最高になるように頑張ってくれました。
病院から戻ってきた冗談好きな叔母は、兄が元気だったこと、辛かったけど、バカ話をしてきたよ、と泣き笑い。
どうしてこんなことに…早すぎるだろう、とそのあとずっと泣いていました。

わたしもやはり泣けてしまうけど、ほんと、兄を思うとどうしても涙ばかり出ちゃうけど、今夜、母とこんな約束をしました。

「お兄ちゃんはきっと、自分をかわいそうだなんて思って欲しくないよね?
 だから、わたしはずっと笑ってるよ。
 お兄ちゃんと話すときは、バカになって、ずっと笑ってるよ。」

12/4

今日12/4は、予定通りならば兄が胃の全摘手術をする日でした。
でも、兄の全身状態の悪化と胃を全摘しても状況は悪くなる一方ではないかとの外科的所見で、結局手術は行われないことになり、それを二日前(12/2)、兄と家族に伝えられました。

この12/4の手術に向けて絶食をしてきた兄が、先生に言ったそうです。

「じゃあ、僕のこの3週間はなんだったんでしょう?」

食べたいものも食べられず、ずっご我慢してきた兄。
それもこれもこの手術のためでした。

手術ができないと知った兄は、
「わかりました。ありがとうございました。」
と、すぐ席を立ったそうです。

外科の先生が母におっしゃいました。
「息子さんは勘の良い方ですね」

当たり前です。
もう兄は自分が助からないと知ってしまいました。
望みはすべてなくなってしまったと。

12/4はわたしにとって、涙の日となりました。



そして、わたしのこと。

昨日の夕方、携帯電話と家の電話に、検査した病院から何度かコールがありました。
でも運悪くそれを取れなかったわたしは、かかってきた先が検査した病院だと知って、嫌な予感がしました。

検査の結果が悪かったのではないだろうか?

15年も前のことになりますが、東大病院で卵巣膿腫の手術前検査をしていた時期、職場に東大病院の主治医から電話があり、頚癌の疑いがあるのでなるべく早く受診するようにとのショックな内容。
結局、卵巣膿腫と頚部の上皮異型性(前がん)を切除する手術を受けることとなります。

検査した病院からの電話があるということは、わたしにとって悪いニュース以外の何ものでもなかったのです。

その電話に気がついたのが夕方6時以降だったので、折り返し何度電話をかけてもテープの音声が繰り返されるだけで、まったく相手の出る気配がありません。
パニ食ったわたしは、隣家の母のところにすごい形相で駆け込んで(あとで母にすごかった、と言われました。笑)、その病院に長くかかっている母に、どうやったら病院と連絡がつくだろうかと相談したのです。

母も知り合いの方などに電話をして、どうにか連絡が取れるようにと頑張ってくれましたが、わたしはまた家に戻り、何度かその病院に電話をし続けました。
…と、何度目かにテープが流れないチャンスが訪れ、とうとう病院の方が出られました。

「何度もお電話いただいている、Sueと申しますが…」
「ああ、Sueさん。検査の結果がだいたい出揃ったので、病院においでくださいね。」
「あの…検査結果が悪かったんでしょうか…?」
「あら!…心配させてしまったんですね…ごめんなさい。先生からお知らせするように言われたものですから。」

相手は病院の士長(婦長)さん。
検査結果がいいとも悪いともはっきりしないまま、ただ検査結果が出ているから病院に来るように、との連絡。
またまたその微妙さに、胸が張り裂けそうなくらいドキドキしたSueでした。

だいたいちょっと検査したくらいで、わざわざ検査結果が出たからと連絡してくる病院もないと思います。
わたしは、「急いで再検査」とか「何か問題があって伝えたいから」電話をしてきたと受け取ってしまったのです。

夕べは本当につらい夜でした。
もしや兄に続いて自分までも…と追い詰められた気分でした。
ベッドに横になっても、子どもたちの声も届かず、TVの音も遠くのざわめきとしか聞こえず、うとうとと苦しい眠りと目を覚ますの繰り返し。

結局、朝一番に病院に行って、聞いた検査結果は『異常なし』。
昨日からの苦しみは何だったのでしょうか。

今となれば笑い話かもしれませんが、わたしにとっても母にとっても本当に苦しい一夜になってしまいました。
親切心から電話をいただいたのかもしれませんが、普通しないことをされると患者って悪いほう悪いほうへと考えてしまうのです。

医療関係者だったら、患者の気持ちも考えてほしいと思った出来事でした。
何はともあれ、『異常なし!』はどしゃぶりのわたしの心を曇り空くらいにはしてくれた出来事でした。

ご心配かけてごめんなさいね。

今日は悲しいほどのお天気。

兄の病状の進行は思いがけなく早く、この12月を過ごせるかどうかも定かではなくなってきました。
明日2日には、義姉が水戸の免疫療法の病院へ相談に行くことになっていましたが、最早それも叶わなくなりそうです。

腹水に血液が混じり、それも今までの胃癌からの出血ばかりではなく…寝ていると腰が痛いと言っていたけど、たぶん骨転移しているのだろうということです。
痛みもかなり出てきたようで、弱いモルヒネもそろそろ効かなくなり…
痛がる兄を看ていなくてはならない義姉は、どれほど苦しいことか…

入院してまだ1ヶ月だというのに、もう緩和ケアに移らねばならない兄。
どれほど無念か。
苦しい苦しい苦しい…


先週の金曜日の夜、排尿痛と重苦しい腰痛に見舞われたわたしでした。
翌日には痛みも消えほっとしたのですが、まだなんとなく排尿時にしみるので昨日の月曜日に泌尿器科を受診しました。
血尿が出ているので膀胱炎かと思いきや、白血球の数値が悪くないのでそうではないかもとのこと。
考えられるのは尿管結石だけれど、それも???
お腹のエコー検査をしたら、先生が「肝臓にカゲがあるので、内科のCTが取れるところへ行ったほうがいいね」と。

∑(´Д`*)ノノ!!
その事実に、膀胱炎なんかどこかへ吹っ飛んでしまいました。

兄が癌の末期状態だというのに、わたしも???
不安な気持ちで、内科の病院に紹介状を持って行きました。
結局翌日に検査、と言われて、今日行ってきました。

結果は『肝臓に血管腫』がありました。
しかも直径10センチ以上で、でかいことでかいこと!
ほぼ良性だと思うと言われて、念のため血液検査をしてきました。
ついでに母がC型肝炎のキャリアなので、そちらの検査も。
結果は3日後です。
今からドキドキ…

母を悲しませないような結果でありますように。
重ね重ね、わたしたち家族ってすごく不幸な気がします。゚(●ノω'o)゚。

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